龍飛崎・十三湖・斜陽館・津軽富士見湖
竜飛崎・十三湖・斜陽館スライド・ストーリー
津軽半島最北端が龍飛崎です。
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津軽富士見湖
北津軽郡鶴田町にある津軽富士見湖です
日本一なが〜いきの橋
鶴の舞橋
桜と鶴の舞橋と岩木山
丹頂自然公園の丹頂
亀ヶ岡遺跡
教科書にも載っている有名な『遮光器土偶』のモニュメント
JR木造駅に張付く『しゃこちゃん』
列車が入ってくると目が光ります。
立佞武多の館
(五所川原)
芽吹き心荒ぶる
炎
絆
ガンダム
2017年立佞武多に行って来ました!
大きさは申し分なし、有料観覧席にはガッカリ、運行も有料観覧席から見えるようになるのに1時間
斜陽館
太宰治の生家
平成八年までは旅館「斜陽館」として営業していたが
閉館されるととなり旧金木町が買取り改修工事をおこない
五所川原市の太宰治記念館「斜陽館」として現在に至ります。
雲祥寺
太宰治の生まれた金木(現在の五所川原市金木町)にあるお寺、
正式名称は「金木山雲祥寺」400年以上の歴史のある寺とのこと。
太宰の小説「思ひ出」によると、
6・7歳のころ「たけ」という女中との思い出がつづられている。
越野たけは太宰にとって非常に思い出深い人物で、
後年の小説「津軽」では三十年ちかく経って再会をはたしている。
以下に、「思ひ出」の一節を転記しておく。
たけは又、私に道徳を教へた。お寺へ屡々連れて行つて、
地獄極樂の御繪掛地を見せて説明した。
火を放(つ)けた人は赤い火のめらめら燃えてゐる籠を脊負はされ、
めかけ持つた人は二つの首のある青い蛇にからだを卷かれて、せつながつてゐ
た。
血の池や、針の山や、無間奈落といふ白い煙のたちこめた底知れぬ深い穴や、
到るところで、蒼白く痩せたひとたちが口を小さくあけて泣き叫んでゐた。
嘘を吐けば地獄へ行つてこのやうに鬼のために舌を拔かれるのだ、
と聞かされたときには恐ろしくて泣き出した。
そのお寺の裏は小高い墓地になつてゐて、山吹かなにかの生垣に沿うて
たくさんの卒堵婆が林のやうに立つてゐた。卒堵婆には、
滿月ほどの大きさで車のやうな黒い鐵の輪のついてゐるのがあつて、
その輪をからからして、やがて、そのまま止つてじつと動かないなら
そのした人は極樂へ行き、一旦とまりさうになつてから、
又からんと逆にれば地獄へ落ちる、とたけは言つた。
たけがすと、いい音をたててひとしきりつて、かならずひつそりと止るのだけれど、
私がすと後戻りすることがたまたまあるのだ。秋のころと記憶するが、
私がひとりでお寺へ行つてその金輪のどれをして見ても皆言ひ合せたやうに
からんからんと逆りした日があつたのである。
私は破れかけるかんしやくだまを抑へつつ何十囘となく執拗にしつづけた。
日が暮れかけて來たので、私は絶望してその墓地から立ち去つた。
以下、略。 全文を読みたい方は
小説「思ひ出」
へ
左は、太宰が回したかもしれない「後生車」
因みに、taruboは地獄行きと出ました(;O;)
左は、2008年に建立された記念碑
後生車が付いていて、碑文は太宰直筆で、
金木文化会 の機関紙「金木文化」創刊号に寄せたもので、
「汝を愛し汝を憎む」とあります。
高山稲荷神社
南に津軽富士といわれる岩木山、西に七里長浜と日本海、
北に十三湖(市浦)・権現崎のある小泊から渡島(北海道)、
東に津軽の山並みを見渡す高山稲荷神社がいつの頃に
創建されたかについての資料は、江戸時代にいくつかの
稲荷創建の伝承説が残されている他にほとんどありません。
しかし、神社が三王神社として記載されている古地図があり、
古くからの難所であった周辺の海路、陸路の守護神であった
との伝承もあります。
おそらくここは先住民族である津軽蝦夷の時代からの守護神が
祀られた神社であり、安東氏の統治時代から三王神社となり、
江戸時代になって当地に開墾の鍬がいれられたからは
稲荷神社になったのだと推測されます。
知る人ぞ知る「千本鳥居」(実際は200本)
千本鳥居の奥には、沢山のお狐さんや沢山の祠があります。
以下、高山稲荷神社のパンフレットより
この地方特有の祈祷師に率いられた教団的信仰、
稲荷大神の熱狂的信者が教祖となっての個性的信仰もあり、
神社の付近に専用のお塚をたてて独特の振興活動を行い、
沢山の小神祠やお狐さんが奉納されております。
今ではそれらをまとめて神苑を造り、お祭りしています。
中には老朽化したもの、お参りが絶えてしまったものも多いため、
神社では毎年8月10日にお焚き上げのお祓いをしています。
参集殿(宿泊施設だそうで約300人の宿泊が可能とのこと)
拝殿(この奥に本殿があるらしい)
チェスボロー号記念碑
明治22年(1889年)10月30日に起こった日本海七里長浜での、
村をあげた米国商船(1,500トン)の救済活動と、
その際亡くなった船員を偲ぶ、チェスボロー号記念碑。
この日日本海は大荒れで、
ここの沖合でアメリカの帆船チェスボロー号が遭難しました。
風速60メートルを超す大嵐の中、浅瀬に激突、船は大破し、
乗組員の23名全員が海に放りだされました。
荒海に船を出し、このうち4名の救助をし、
介護したのが車力村の人達です。
殊に神社へお参りに来る人々のため、木賃宿を開いていた
工藤吉右衛門(のちに神社の初代常勤奉仕者)の妻、
はんの活躍はめざましいものでした。
はんは、衰弱し「もうだめだ」とみられた乗組員の
ヘンリー・ウィルソン氏を、村人達の見守る中、
着物を脱いで全身で暖め、一命を救い、吉右衛門夫婦は
4人に鶏肉や卵を提供し、元気を回復させました。
後、その功により、はんは青森県から賞状をもらうことになりました。
電話も自転車もなかった時代、
車力村(現在のつがる市車力)から青森県庁までの約64qを
村一番の健脚といわれた若者2人が自ら足で走り抜け、
3日後、奇跡的に助かった4人は無事米国に帰国しました。
国境を越えた勇気と愛の人間ドラマは感動と共に語り継がれ、
車力村と米国メーン州バス市は、積極的に交流が行われるようになりました。
チェスボロー号遭難100周年をきっかけとして、
平成2年(1990)から始まったチェスボローカップ水泳駅伝は、
車力村とバス市の直線距離にあたる10,200qを、
1チーム5人、全参加者の合計距離を毎年累計して泳ぎ切ろうという大会です。
参加者全員で目指す壮大な夢へのチャレンジは
「勇気と愛は海を超える」というキャッチフレーズ通り、
毎年全国はもちろん、世界各国から参加者が集まる大イベントとなっています。
十三湖
七平展望台より十三湖を望む。以下は展望台に書かれていた
津軽国定公園
七平展望台 中里町
「浅い真珠貝に水を盛ったような…」と太宰治が評した
十三湖も、かつては五所川原附近まで日本海が入り込んだ
大潟であった。
当時(七〜八百年前)十三湊は、日本七大港のひとつとして栄え、
この地を支配していた安東氏の海上活動は、遠く瀬戸内海まで
及んでいたが、大津波で壊滅し、今は昔を偲ぶよすがもない。
近年は、シジミ狩りと釣りの名所として、また白鳥の飛来地
として名を知られている。
道の駅トーサムグリーンパークより十三湖を望む
十三湖のシジミは大きなアサリほどもあるものもある
十三湖中島遊歩道橋
権現崎
徐福碑文
徐福は今から二千二百年程前、中国を統一した
秦の始皇帝に仕え、その命令で東海島(日本)の
蓬莱山にあるという不老不死の仙薬を求めて、
津軽の権現崎に上陸したと伝えられている。
小泊にある
小説「津軽」
の像
太宰治とたけ(治の幼年時代の子守)の
再開場面を再現した像
龍飛崎
津軽半島を日本海側に沿って北上していくと
小泊から龍飛に龍泊ラインになります。
ここも景色がとても綺麗なところです。
龍飛には何度も行っていますが、最初行ったときには
龍泊ラインも工事中で断崖絶壁の未舗装部分は怖かった。
遠く権現崎を望む
遠く龍飛崎が見えます
その先更に遠くに見えるのは北海道
龍飛崎には東北電力の風力発電所があります。
竜飛崎では『青函トンネル記念館』から竜飛海底駅のすぐ隣まで
日本一短い鉄道(778m)で降りることができる。
もしもの事故の場合は海面下140mの海底駅からの避難路。
階段国道
ここも、国道です。
日本にひとつだけの階段の国道です。
全 長 388.2m 362段
高低差 約70m
太宰治の石碑
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