『菜根譚』 I

前集1項〜50項


前集 1項

棲守道徳者、寂寞一時。依阿権勢者、凄凉万古。達人観物外之物、思身後之身。寧受一時之寂寞、毋取万古之凄凉。

道徳に棲守するは、一時に寂寞たり。権勢に依阿するは、万古に凄凉たり。
達人は物外の物を観、身後の身を思う。むしろ一時の寂寞を受繰るも、万古の凄凉を取ることなかれ。

前集 2項

渉世浅、点染亦浅、歴事深、機械亦深。故君子与其練達、不若朴魯。与其曲謹、不若疎狂。

世を渉ること浅ければ、点染もまた浅く、事を歴ること深ければ、機械もまた深し。
ゆえに君子はその練達ならんよりは、朴魯なるにしかず。その曲謹ならんよりは、疎狂なるにしかず。

前集 3項

君子之心事、天青日白、不可使人不知。君子之才華、玉韜珠蔵、不可使人易知。

君子の心事は、天青く日白く、人をして知らざらしむべからず。
君子の才華は、玉韜まれ珠蔵れ、人をして知りやすからしむべからず。

前集 4項

勢利紛華、不近者為潔。近之而不染者為尤潔。智械機巧、不知者為高。知之而不用者為尤高。

勢利紛華は、近づかざるものを潔しとなす。これに近づきて而も染まざるものをもっとも潔しとなす。
智械機巧は、知らざるものを高しとなす。これを知りて而も用いざるものをもっとも高しとなす。

前集 5項

耳中常聞逆耳之言、心中常有払心之事、纔是進徳修行的砥石。
若言言悦耳、事事快心、便把此生埋在鴆毒中矣。

耳中つねに耳に逆らうの言を聞き、心中つねに心に払るの事あれば、わずかにこれ徳に進み行いを修むるの砥石なり。
もし言々耳を悦ばし、事々心に快ければ、この生を把りて鴆毒のうちに埋在せん。

前集 6項

疾風怒雨、禽鳥戚戚。霽日光風、草木欣欣。可見天地不可一日無和気、人心不可一日無喜神。

疾風怒雨には、禽鳥も戚々たり。霽日光風には、草木も欣々たり。
見るべし、天地に一日も和気なかるべからず、人心に一日も喜神なかるべかざるを。

前集 7項

じょう肥辛甘非真味。真味只是淡。神奇卓異非至人。至人只是常。

じょう肥辛甘は真味にあらず。真味はただこれ淡。神奇卓異は至人にあらず。至人はただこれ常。

 のう肥の「じょう」は「酉農」で一字

前集 8項

天地寂然不動、而気機無息少停。日月昼夜奔馳、而貞明万古不易。
故君子、闔棊v有喫緊的心思、忙処要有悠闢I趣味。

天地は寂然として動かず、而して気機は息むことなく、停まること少なし。
日月は昼夜に奔馳す、而して貞明は万古に易らず。
ゆえに君子は闔桙ノ喫緊の心思あるを要し、忙処に悠閧フ趣味あるを要す。

前集 9項

夜深人静、独坐観心、始覚妄窮而真独露。毎於此中、得大機趣。既覚真現而妄難逃、又於此中、得大慚忸。

夜深く人静かなるとき、独り坐して心を観ずれば、始めて妄窮まりて、真独り露わるるを覚ゆ。
つねにこのうちにおいて、大機趣を得。すでに真現れて妄逃れがたきを覚ゆれば、またこのうちにおいて、大慚忸を得。

前集10項

恩裡由来生害。故快意時、須早回頭。敗後或反成功。故払心処、莫便放手。

恩裡由来害を生ず。ゆえに快意の時、すべからく早く頭を回らすべし。
敗後あるいは反って功を成す。ゆえに払心の処、すなわち手を放つことなかれ。

前集11項

藜口けん腸者、多氷清玉潔。袞衣玉食者、甘婢膝奴顔。蓋志以澹泊明、而節従肥甘喪也。

藜口けん腸は、氷清玉潔多し。袞衣玉食は、婢膝奴顔をあまんず。
けだし志は澹泊をもって明らかに、而して節は肥甘より喪う。

 藜口けん腸者の「けん」は「草冠に見」で一字

前集12項

面前的田地、要放得寛、使人無不平之歎。身後的恵沢、要流得久、使人有不匱之思。

面前の田地は、放ちえて寛きを要し、人をして不平の歎なからしむ。
身後の恵沢は、流しえて久しきを要し、人をして不匱の思いあらしむ。

前集13項

経路窄処、留一歩与人行、滋味濃的、減三分譲人嗜。此是渉世一極安楽法。

経路窄き処は、一歩を留めて人の行くに与え、滋味濃やかなるものは、三分を減じて人の嗜むに譲る。
これはこれ、世を渉る一の極楽法なり。

前集14項

作人無甚高遠事業。擺脱得俗情、便入名流。為学無甚増益功夫。減除得物累、便超聖境。

人となるにはなはだ高遠の事業はなし。俗情を擺脱し得れば、名流に入る。
学をなすにはなはだ増益の功夫はなし。物累を減除し得れば、聖境を超ゆ。

前集15項

交友須帯三分侠気。作人要在一点素心。

友に交わるにはすべからく三分の侠気を帯ぶべし。人となるには一点の素心を在するを要す。

前集16項

寵利毋居人前。徳業毋落人後。受享毋踰分外。修為毋減分中。

寵利は人の前に居ることなかれ。徳業は人の後に落つることなかれ。
受享は分外に踰ゆることなかれ。修為は分中に減ずることなかれ。

前集17項

処世譲一歩為高。退歩即進歩的張本。待人寛一分是福。利人実利己的根基。

世に処するには一歩を譲るを高しとなす。歩を退くるはすなわち歩を進むるの張本なり。
人を待つに一分を寛にするはこれ福なり。人を利するは実に己を利するの根基なり。

前集18項

蓋世功労、当不得一個矜字。弥天罪過、当不得一個悔字。

世間を蓋うの功労も、一個の矜の字に当たり得ず。天に弥るの罪過も、一個の悔の字に当たり得ず。

前集19項

完名美節、不宜独任。分些与人、可以遠害全身。辱行汚名、不宜全推。引些帰己、可以韜光養徳。

完名美節は、よろしく独り任ずべからず。些を分ちて人に与え、もって害を遠ざけ身を全うすべし。
辱行汚名は、よろしく全く推すべからず。些を引きて己れに帰し、もって光を韜み徳を養うべし。

前集20項

事事留個有余不尽的意思、便造物不能忌我、鬼神不能損我。若業必求者、巧必求盈者、不生内変必召外憂。

事々、個の有余不尽の意思を留むれば、すなわち造物もわれを忌むことあたわず、鬼神もわれを損ずることあたわず。
もし業は必ず満を求め、功は必ず盈を求むれば、内変を生ぜざれば必ず外憂を召かん。

前集21項

家庭有個真仏、日用有種真道。
人能誠心和気、愉色婉言、使父母兄弟間、形骸両釈、意気交流、勝於調息観心万倍矣。

家庭に個の真仏あり、日用に種の真道あり。
人よく誠心和気、愉色婉言、父母兄弟の間をして、形骸ふたつながら釈け、
意気こもごも流れしめば、調息観心に勝ること万倍なり。

前集22項

好動者雲雷風灯、嗜寂者死灰槁木。須定雲止水中、有鳶飛魚躍気象、纔是有道的心体。

動を好むは雲電風灯、寂を嗜むは死灰槁木。
すべからく定雲止水の中に、鳶飛び魚躍るの気象あるべくして、わずかにこれ有道の心体なり。

前集23項

攻人之悪、毋太厳、要思其堪受。教人以善、毋過高、当使其可従。

人の悪を攻むるは、太だ厳なることなかれ、その受くるに堪えんことを思うを要す。
人に教うるにも善をもってするは、高きに過ぐることなかれ、それをして従うべからしむべし。

前集24項

糞虫至穢、変為蝉而飲露於秋風。腐草無光、化為蛍而燿釆於夏月。固知潔常自汚出、明毎従晦生也。

糞虫は至穢なるも、変じて蝉となりて露を秋風に飲む。腐草は光なきも、化して蛍となりて釆を夏月に耀かす。
まことに知る、潔きはつねに汚れより出で、明るきはつねに晦より生ずるを。

前集25項

矜高倨傲、無非客気。降伏得客気下、而後正気伸。情欲意識、尽属妄心。消殺得妄心尽、而後真心現。

矜高倨傲は、客気にあらざるはなし。客気を降伏し得下して、後に正気伸ぶ。
情欲意識は、ことごとく妄心に属す。妄心を消殺し得尽くして、後に真心現わる。

前集26項

飽後思味、則濃淡之境都消、色後思婬、則男女之見尽絶。故人常以事後之悔悟、破臨事之癡迷、則性定而動無不正。

飽後、味を思えば、濃淡の境すべて消え、色後、婬を思えば、男女の見ことごとく絶ゆ。
ゆえに人つねに事後の悔悟をもって、臨事の癡迷を破らば、性定まりて動くこと正しからざるはなし。

前集27項

居軒冕之中、不可無山林的気味。処林泉之下、須要懐廊廟的経綸。

軒冕のうちに居りては、山林の気味なかるべからず。
林泉のもとに処りては、すべからく廊廟の経綸を懐くことを要すべし。

前集28項

処世不必邀功。無過便是功。与人不求感徳。無怨便是徳。

世に処しては必ずしも功を邀めざれ。過ちなきはすなわちこれ功なり。
人に与えては徳に感ずることを求めざれ。怨みなきはすなわちこれ徳なり。

前集29項

憂勤是美徳、太苦則無以適性怡情。澹泊是高風、太枯則無以済人利物。

憂勤はこれ美徳なれども、はなはだ苦しめば、もって性に適い怡ばしむることなし。
澹泊はこれ高風なれども、はなはだ枯るればもって人を済い物を利することなし。

前集30項

事窮勢蹙之人、当原其初心。功成行満之士、要観其末路。

事窮まり勢い蹙まるの人は、まさにその初心を原ぬべし。
功成り行かない満つるの士は、その末路を観ることを要す。

前集31項

富貴家宜寛厚、而反忌刻。是富貴而貧賤其行矣。如何能享。
聡明人宜斂蔵、而反R耀。是聡明而愚もう其病矣。如何不敗。

富貴の家はよろしく寛厚なるべくして、反って忌刻なり。これ富貴にしてその行いを貧賤にするなり。いかんぞよく享けん。
聡明な人はよろしく斂蔵すべくして、反ってR耀す。これ聡明にしてその病を愚もう(蒙)にするなり。いかんぞ敗れざらん。

前集32項

居卑而後知登高之為危。処晦而後知向明之太露。守静而後知好動之過労。養黙而後知多言之為躁。

卑きに居りて後に高きに登るの危きを知る。晦きに処りて後に明るきに向うの太だ露わるるを知る。
静を守りて後に動を好むの労に過ぐるを知る。黙を養いて後に多言の躁たるを知る。

前集33項

放得功名富貴之心下、便可脱凡。放得道徳仁義之心下、纔可入聖。

功名富貴の心を放ち得下して、すなわち凡を脱すべし。道徳仁義の心を放ち得下して、わずかに聖に入るべし。

前集34項

利欲未尽害心、意見乃害心之ぼう賊。声色未必障道、聡明乃障道之藩屏。

利欲はいまだ尽くは心を害せず、意見はすなわち心を害するのぼう賊なり。
声色はいまだ必ずしも道を障げず、聡明はすなわち道を障げるの藩屏なり。

 ぼう賊「ぼう」は「蟲の上の虫を矛に変えたもの

前集35項

人情反復、世路崎嶇。行不去処、須知退一歩之法。行得去処、務加譲三分之功。

人情は反復し、世路は崎嶇たり。行き去らざる処は、すべからく一歩を退くの法を知るべし。
行き得去る処は、つとめて三分を譲るの功を加えよ。

前集36項

待小人、不難於厳、而難於不悪。待君子、不難於恭、而難於有礼。

小人を待つは、厳に難からずして、悪まざるに難し。君子を待つは、恭に難からずして、礼あるに難し。

前集37項

寧守渾がく、而黜聡明、留些正気還天地。寧謝紛華、而甘澹泊、遺個清名在乾坤。

むしろ渾がくをまもりて、聡明を黜け、些の正気を留めて天地に還せ。
むしろ紛華を謝して、澹泊に甘んじ、個の清名を遺して乾坤にあれ。

前集38項

降魔者、先降自心。心伏則群魔退聴。馭横者、先馭此気。気平則外横不侵。

魔を降すには、まず自心を降す。心伏すれば、群魔退き聴く。
横を馭するには、まずこの気を馭す。気平らかなれば、外横侵さず。

前集39項

教弟子如養閨女。最要厳出入謹交遊。若一接近匪人、是清浄田中下一不浄種子。便終身難植嘉禾。

弟子を教うるは閨女を養うがごとし。最も出入を厳にし、交遊を謹むを要す。
もしひとたび匪人に接近せば、これ清浄の田中にひとつの不浄の種子を下すなり。すなわち終身嘉禾を植えがたし。

前集40項

欲路上事、毋楽其便而姑為染指。一染指便深入万仭。理路上事、毋憚其難而稍為退歩。一退歩便遠隔千山。

欲路上の事は、その便を楽しみて姑くも染指をなすことなかれ。ひとたび染指せばすなわち万仭に入らん。
理路上の事は、その難を憚りてややも退歩をなすことなかれ。ひとたび退歩せばすなわち遠く千山を隔てん。

前集41項

念頭濃者自待厚、待人亦厚、処処皆濃。念頭淡者自待薄、待人亦薄、事事皆淡。故君子居常嗜好不可太濃艶、亦不宜太枯寂。

念頭濃かなるは、みずから待つこと厚く、人を待つこともまた厚く、処々みな濃かなり。
念頭淡きは、みずから待つこと薄く、人を待つこともまた薄く、事々みな淡し。
ゆえに君子は居常嗜好、はなはだ濃艶なるべからず、またよろしくはなはだ枯寂なるべからず。

前集42項

彼富我仁、彼爵我義。君子固不為君相所牢籠。人定勝天。志一動気。君子亦不受造物陶鋳。

かれは富、われは仁、かれは爵、われは義。君子もとより君相のために牢籠せられず。
人定まれば天に勝つ。志一なれば気を動かす。君子また造物の陶鋳を受けず。

前集43項

立身不高一歩立、如塵裡振衣、泥中濯足、如何超達。処世不退一歩処、如飛蛾投燭、羝羊触藩。如何安楽。

身を立つるに一歩を高くして立たずんば、塵裡に衣を振い、泥中に足を濯うがごとし。いかんぞ超達せん。
世に処するに一歩を退いて処らずんば、飛蛾の燭に投じ、羝羊の藩に触るるがごとし。いかんぞ安楽ならん。

前集44項

学者要収拾精神、併帰一路。如修徳而留意於事功名誉、必無実詣。読書而寄興於吟咏風雅、定不深心。

学は精神を収拾して、一路に併帰するを要す。もし徳を修めて意を事功名誉に留むれば、必ず実詣なし。
書を読みて興を吟咏風雅に寄すれば、定めて深心ならず。

前集45項

人人有個大慈悲。維摩屠かい無二心也。処処有種真趣味。金屋茅簷非両地也。
只是欲蔽情封、当面錯過、使咫尺千里矣。

人々、個の大慈悲あり。維摩屠かい、二心なきなり。処々、種の真趣味あり。金屋茅簷、両地にあらざるなり。
ただこれ欲蔽い情封じ、当面に錯過せば、咫尺をして千里ならしむ。

 維摩屠かいの「かい」は「利の禾を曾に変えた字

前集46項

進徳修道、要個木石的念頭。若一有欣羨、便趨欲境。済世経邦、要段雲水的趣味。若一有貧着、便堕危機。

徳を進め道を修るには、個の木石の念頭を要す。もしひとたび欣羨あれば、すなわち欲境に趨る。
世を済い邦を経するには、段の雲水の趣味を要す。もしひとたび貧着あれば、すなわち危機に墮つ。

前集47項

吉人無論作用安詳、即夢寐神魂、無非和気。凶人無論行事狼戻、即声音咲語、渾是殺機。

吉人は作用の安詳を論ずるまでもなく、すなわち夢寐神魂も、和気にあらざるはなし。
凶人は行事の狼戻を論ずるまでもなく、すなわち声音咲語も、すべてこれ殺機。

前集48項

肝受病、則目不能視。腎受病、則耳不能聴。病受於人所不見、必発於人所共見。
故君子欲無得罪於昭昭、先無得罪於冥冥。

肝、病を受くれば、目、視ることあたわず。腎、病を受くれば、耳、聴くことあたわず。
病いは人の見ざるところにて受けて、必ず人のともに見るところに発す。
ゆえに君子は罪を昭々に得ることなきを欲せば、まず罪を冥々に得ることなかれ。

前集49項

福莫福於少事、過莫過於多心。唯苦事者、方知少事之為福。唯平心者、始知多心之為過。

福は事少なきより福なるはなく、禍いは心多きより禍なるはなし。
ただ事に苦しむものは、まさに事少なきの福たるを知る。
ただ心を平かにするものは、始めて心多きの禍いたるを知る。

前集50項

処治世宜方、処乱世宜円、処叔季之世、当方円並用。待善人宜寛、待悪人宜厳、待庸衆之人、当寛厳互在。

治世に処してはよろしく方なるべく、乱世に処してはよろしく円なるべく、叔季の世に処しては、まさに方円ならび用うべし。
善人を待つにはよろしく寛なるべく、悪人を待つにはよろしく厳なるべく、庸衆の人を待つには、まさに寛厳互いに在すべし。

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