『菜根譚』 VI

後集1項〜50項


後集 1項

談山林之楽者、未必真得山林之趣。厭名利之談、未必尽忘名利之情。

山林の楽しみを談ずるは、いまだ必ずしも真に山林の趣を得ず。
名利の談を厭うは、いまだ必ずしも尽く名利の情を忘れず。

後集 2項

釣水逸事也、尚持生殺之柄。奕棋清戯也、且動戦争之心。可見喜事不如省事之為適。多能不若無能之全真。

水に釣るは逸事なり、なお生殺の柄を持す。奕棋は清戯なり、かつ戦争の心を動かす。
見るべし、事を喜ぶは事を省くの適たるにしかず、多能は無能の真を全うするにしかざることを。

後集 3項

鴬花茂而山濃谷艶、総是乾坤之幻境。水木落而石痩崕枯、纔見天地之真吾。

鴬花茂くして山濃やかに谷艶なる、すべてこれ乾坤の幻境なり。
水木落ちて石痩せ崕枯る、わずかに天地の真吾を見る。

後集 4項

歳月本長、而忙者自促。天地本寛、而鄙者自隘。風花雪月本閨A而労攘者自冗。

歳月もと長くして、而して忙しき者みずから促れりとす。天地もと寛にして、而して鄙しき者みずから隘しとす。
風花雪月もと閧ノして、而して労攘の者みずから冗なりとす。

後集 5項

得趣不在多。盆池拳石間、煙霞具足。会景不在遠。蓬窓竹屋下、風月自しゃ。

趣を得るは多きにあらず。盆池拳石の間にも、煙霞具足す。
景を会するは遠きにあらず。蓬窓竹屋の下にも、風月おのずからはるかなり。

 風月自しゃの「しゃ」は「貝に余の字

後集 6項

聴静夜之鐘声、喚醒夢中之夢、観澄潭之月影、窺見身外之身。

静夜の鐘声を聴いては、夢中の夢を喚び醒まし、澄潭の月影を観ては、身外の身を窺い見る。

後集 7項

鳥語虫声、総是伝心之訣。花英草色、無非見道之文。学者要天機清徹、胸次玲瓏、触物皆有会心処。

鳥語虫声も、すべてこれ伝心の訣なり。花英草色も、見道の文にあらざるはなし。
学は天機清徹、胸次玲瓏、物に触れてみな、会心のところあらんことを要す。

後集 8項

人解読有字書、不解読無字書。知弾有絃琴、不知弾無絃琴。以迹用、不以神用、何以得琴書之趣。

人、有字の書を読むを解して、無字の書を読むを解せず。有絃の琴を弾ずるを知りて、無絃の琴を弾ずるを知らず。
迹をもって用い、神をもって用いず。なにをもってか琴書の趣を得ん。

後集 9項

心無物欲、即是秋空霽海、坐有琴書、便成石室丹丘。

心に物欲なければ、すなわちこれ秋空霽海、坐に琴書あれば、すなわち石室丹丘を成す。

後集10項

賓朋雲集、劇飲淋漓楽矣。俄而漏尽燭残、香銷茗冷、不覚反成嘔咽、令人索然無味。
天下事率類此。人奈何不早回頭也。

賓朋雲集し、劇飲淋漓として楽しめり。
にわかにして漏尽き燭残り、香銷え茗冷やかにして、覚えずかえって嘔咽を成し、人をして索然として味なからしむ。
天下のことおおむねこれに類す。人、いかんぞ早く頭を回らさざる。

後集11項

会得個中趣、五湖之煙月、尽入寸裡。破得眼前機、千古之英雄、尽帰掌握。

個中の趣を会し得れば、五湖の煙月も、ことごとく寸裡に入る。
眼前の機を破り得ば、千古の英雄も、ことごとく掌握に帰す。

後集12項

山河大地、已属微塵。而況塵中の塵。血肉身く、且帰泡影。而況影外之影。非上上智、無了了心。

山河大地、すでに微塵に属す。而るをいわんや塵中の塵をや。血肉身く、かつ泡影に帰す。
而るをいわんや影外の影をや。上々の智にあらざれば、了々の心なし。

 血肉身くの「」は「身に區の字

後集13項

石火光中、争長競短。幾何光陰。蝸牛角上、較雌論雄。許大世界。

石火光中、長を争い短を競う。いくばくの光陰ぞ。蝸牛角上、雌を較べ雄を論ず。許大の世界ぞ。

後集14項

寒灯無焔、敝裘無温、総是播弄光景。身如槁木、心似死灰、不免堕落頑空。

寒灯焔なく、敝裘温なきは、すべてこれ光景を播弄す。
身槁木のごとく、心死灰に似たるは、頑空に堕落するを免れず。

後集15項

人肯当下休、便当下了。若要尋個歇処、則婚嫁雖完、事亦不少。僧道雖好、心亦不了。
前人云、如今休去便休去。若覓了時無了時。見之卓矣。

人あえて当下に休せば、すなわち当下に了せん。
もし個の歇むところを尋ぬるを要せば、婚嫁完しといえども、事また少なからず。僧道好しといえども、心また了せず。
前人云う、「如今、休し去らばすなわち休し去れ。もし了時を覓むれば、了時なからん」。これを見ること卓なり。

後集16項

従冷視熱、然後知熱処之奔馳無益。従冗入閨A然後覚闥之滋味最長。

冷より熱を視て、然る後に熱処の奔馳益なきを知る。冗より閧ノ入りて、然る後に闥の滋味最も長きを覚ゆ。

後集17項

有浮雲富貴之風、而不必岩棲穴処。無膏肓泉石之癖、而常自酔酒耽詩。

富貴を浮雲にするの風ありて、必ずしも岩棲穴処せず。泉石に膏肓するの癖なくして、つねにみずから酒に酔い詩に耽る。

後集18項

競逐聴人、而不嫌尽酔。恬淡適己、而不誇独醒。此釈氏所謂不為法纏、身心両自在者。

競逐人に聴せて、ことごとく酔うを嫌わず。恬淡己に適して、ひとり醒むるを誇らず。
これ釈氏のいわゆる、法のために纏せられず、空のために纏せられず、身心ふたつながら自在なるものなり。

後集19項

延促由於一念、寛窄係之寸心。故機闔メ、一日遥於千古、意広者、斗室寛若両閨B

延促は一念に由り、寛窄はこれを寸心に係く。
ゆえに機閧ネるものは、一日も千古より遥かに、意広きものは、斗室も寛くして両閧フごとし。

後集20項

損之又損、栽花種竹、儘交還烏有先生。忘無可忘、焚香煮茗、総不問白衣童子。

これを損してまた損し、花を栽え竹を植えて、まま、烏有先生に交還す。
忘るべきなきを忘れ、香を焚き茗を煮て、すべて白衣の童子に問わず。

後集21項

都来眼前事、知足者仙境、不知足者凡境。総出世上因、善用者生機、不善用者殺機。

すべて眼前に来たることは、足るを知る者には仙境、足るを知らざる者には凡境。
すべて世上に出ずるの因は、よく用うる者には生機、よく用いざる者には殺機。

後集22項

趨炎附勢之禍、甚惨亦甚速。棲恬守逸之味、最淡亦最長。

炎に趨り勢いに附くの禍いは、はなはだ惨にしてまたはなはだ速やかなり。
恬に棲み逸を守るの味わいは、最も淡にしてまた最も長し。

後集23項

松澗辺、携杖独行、立処雲生破衲。竹窓下、枕書高臥、覚時月侵寒氈。

松澗の辺り、杖を携えて独行すれば、立つところ、雲は破衲に生ず。
竹窓のもと、書を枕にして高臥すれば、覚むるとき、月は寒氈を侵す。

後集24項

色慾火熾、而一念及病時、便興似寒灰。名利飴甘、而一想到死地、便味如嚼蝋。
故人常憂死慮病、亦可消幻業而長道心。

色慾は火のごとく熾んなるも、一念病時に及べば、興、寒灰に似たり。
名利は飴のごとく甘きも、一想死地に到れば、味い、嚼蝋のごとし。
ゆえに人、つねに死を憂い病いを慮らば、また幻業を消して、道心を長ずべし。

後集25項

争先的径路窄。退後一歩自寛平一歩。濃艶的滋味短。清淡一分自悠長一分。

先を争うの径路は窄し。退き後るること一歩なれば、おのずから一歩を寛平にす。
濃艶の滋味は短かし。清淡一分なれば、おのずから一分を悠長にす。

後集26項

忙処不乱性、須闖心神養得清。死時不動心、須生時事物看得破。

忙処に性を乱さざらんとせば、すべからく闖に心神を養い得て清かるべし。
死時に心を動かさざらんとせば、すべからく生時に事物を看得て破るべし。

後集27項

隠逸林中無栄辱、道義路上無炎涼。

隠逸林中、栄辱なく、道義路上、炎涼なし。

後集28項

熱不必除、而除此熱悩、身常在清凉台上。窮不可遣、而遣此窮愁、心常居安楽窩中。

熱は必ずしも除かず、而してこの熱悩を除かば、身はつねに清凉台上にあらん。
窮は遣るべからず、而してこの窮愁を遣らば、心はつねに安楽窩中に居らん。

後集29項

進歩処、便思退歩、庶免触藩之渦。着手時、先図放手、纔脱騎虎之危。

歩を進むるところ、すなわち歩を退くことを思わば、こいねがわくは藩に触るるの禍を免れん。
手を着くるとき、まず手を放つことを図らば、わずかに虎に騎るの危きを脱れん。

後集30項

貪得者、分金恨不得玉、封公怨不受侯、権豪自甘乞丐。
知足者、藜羮旨於膏梁、布袍煖於狐貉、編民不譲王公。

得ることを貪る者は、金を分ちて玉を得ざるを恨み、公に封ぜられて侯を受けざるを怨み、権豪みずから乞丐に甘んず。
足ることを知る者は、藜羮も膏梁より旨しとし、布袍も狐貉より煖かなりとし、編民も王公に譲らず。

後集31項

矜名、不若逃名趣。練事、何如省事閨B

名に矜るは、名を逃るるの趣あるにしかず。事を練るは、なんぞ事を省くの閧ネるにしかん。

後集32項

嗜寂者、観白雲幽石而通玄、趨栄者、見清歌妙舞而忘倦。唯自得之士、無喧寂、無栄枯、無往非自適之天。

寂を嗜む者は、白雲幽石を観て玄に通じ、栄に趨る者は、清歌妙舞を見て倦むを忘る。
ただ自得の士は、喧寂なく、栄枯なく、往くとして自適の天にあらざるはなし。

後集33項

孤雲出岫、去留一無所係。朗鏡懸空、静躁両不相干。

孤雲岫を出ずる、去留一も係わるところなし。朗鏡空に懸る、静躁ふたつながら相干さず。

後集34項

悠長之趣、不得於のうげん、而得於啜菽飲水。惆悵之懐、不生於枯寂、而生於品竹調絲。固知濃所味常短、淡中趣独真也。

悠長の趣は、のうげんに得ずして、菽の啜り水を飲むに得。
惆悵の懐いは、枯寂に生ぜずして、竹を品し絲を調ぶるに生ず。
まことに知る、濃所の味はつねに短く、淡中の趣はひとり真なるを。

 不得於のうげんの「のうげん」は「酉に農の字と酉に厳の字

後集35項

禅宗曰、饑来喫飯倦来眠。詩旨曰、眼前景致口頭語。蓋極高寓於極平、至難出於至易、有意者反遠、無心者自近也。

禅宗に曰く、「饑え来たれば飯を喫し、倦み来たれば眠る」。
詩旨に曰く、「眼前の景致、口頭の語」。
けだし極高は極平に寓し、至難は至易に出で、有意のものはかえって遠く、無心のものはおのずから近きなり。

後集36項

水流而境無声、得処喧見寂之趣。山高而雲不碍、悟出有入無之機。

水流れて境に声なし、喧に処して寂を見るの趣を得ん。山高くして雲碍えず、有を出で無に入るの機を悟らん。

後集37項

山林是勝地、一営恋便成市朝。書画是雅事、一貪癡便成商賈。蓋心無染著、欲界是仙都。心有係恋、楽境成苦海矣。

山林はこれ勝地、ひとたび営恋すれば、市朝と成る。書画はこれ雅事、ひとたび貪癡すれば、商賈と成る。
けだし心に染著なければ、欲界もこれ仙都。心に係恋あれば、楽境も苦海と成る。

後集38項

時当喧雑、則平日所記憶者、皆漫然忘去。境在清寧、則夙昔所遺忘者、又恍爾現前。可見静躁稍分、昏明頓異也。

時、喧雑に当たれば、平日記憶するところのものも、みな漫然として忘れ去る。
境、清寧にあれば、夙昔遺忘するところのものも、また恍爾として前に現わる。
見るべし、静躁やや分るれば、昏明とみに異なるを。

後集39項

盧花被下、臥雪眠雲、保全得一窩夜気。竹葉杯中、吟風弄月、躱離了万丈紅塵。

盧花被下、雪に臥し雲に眠れば、一窩の夜気を保全し得。竹葉杯中、風に吟じ月を弄べば、万丈の紅塵を躱離しおわる。

後集40項

袞冕行中、着一藜杖的山人、便増一段高風。漁樵路上、著一袞衣的朝士、転添許多俗気。固知濃不勝淡、俗不如雅也。

袞冕行中、一の藜杖の山人を着くれば、すなわち一段の高風を増す。
漁樵路上、一の袞衣の朝士を著くれば、うたた許多の俗気を添う。まことに知る、濃は淡に勝たず、俗は雅にしかざるを。

後集41項

出世之道、即在渉世中。不必絶人以逃世。了心之功、即在尽心内。不必絶欲以灰心。

出世の道は、すなわち世を渉るなかにあり。必ずしも人を絶ちてもって世を逃れず。
了心の功は、すなわち心を尽くすうちにあり。必ずしも欲を絶ちてもって心を灰にせず。

後集42項

此身常放在闖、栄辱得失、誰能差遺我。此心常安在静中、是非利害、誰能瞞昧我。

この身、つねに闖に放在せば、栄辱得失、たれかよくわれを差遺せん。
この心、つねに静中に安在せば、是非利害、たれかよくわれを瞞昧せん。

後集43項

竹籬下、忽聞犬吠鶏鳴、恍似雲中世界。芸窓中、雅聴蝉吟鴉噪、方知静裡乾坤。

竹籬のもと、たちまち犬吠鶏鳴を聞けば、恍として雲中の世界に似たり。
芸窓のうち、まさに蝉吟鴉噪を聴けば、まさに静裡の乾坤を知る。

後集44項

我不希栄、何憂乎利禄之香餌。我不競進、何畏乎仕官之危機。

われ栄を希わずんば、なんぞ利祿の香餌を憂えん。われ進むを競わずんば、なんぞ仕官の危機を畏れん。

後集45項

しょうしょう於山林泉石之閨A而塵心漸息、夷猶於詩書図画之内、而俗気潜消。故君子雖不玩物喪志、亦常借境調心。

山林泉石の閧ノしょうしょうして、塵心ようやく息み、詩書図画のうちに夷猶して、俗気にひそかに消ゆ。
ゆえに君子は、物を玩びて志を喪わずといえども、またつねに境を借りて心を調う。

 しょうしょう於山林泉石之閧フ「しょうしょう」は「彳に尚の字と彳に羊の字

後集46項

春日気象繁華、令人心神駘蕩、不若秋日雲白風消、蘭芳桂馥、水天一色、上下空明、使人神骨倶清也。

春日は気象繁華、人をして心神駘蕩ならしむるも、秋日の雲白く、風消え、蘭芳しく桂馥い、
水天一色、上下空明、人をして神骨ともに清らかならしむにしかず。

後集47項

一字不識、而有詩意者、得詩家真趣。一偈不参、而有禅味者、悟禅教玄機。

一字識らずして、而も詩意あるは、詩家の真趣を得。一偈参せずして、而も禅味あるは、禅教の玄機を悟る。

後集48項

機動的弓影疑為蛇蝎、寝石視為伏虎。此中渾是殺気。念息的石虎可作海?、蛙声可当鼓吹。触処倶見真機。

機動くは、弓影も疑いて蛇蝎となし、寝石も視て伏虎となす。このうちすべてこれ殺気なり。
念息むは、石虎も海?となすべく、蛙声も鼓吹に当つべし。触るるところ、ともに真機を見る。

後集49項

身如不繋之舟、一任流行坎止。心似既灰之木、何妨刀割香塗。

身は繋がざるの舟のごとく、一に流行坎止に任す。心は既灰の木に似て、なんぞ刀割香塗を妨げん。

後集50項

人情聴鴬啼則喜、聞蛙鳴則厭、見花則思培之、遇草則欲去之。
但是以形気用事。若以性天視之、何者非自鳴其天機。非自暢其生意也。

人情、鴬啼を聴いてはすなわち喜び、蛙鳴を聞いてはすなわち厭い、
花を見てはすなわちこれを培わんことを思い、草に遇いてはすなわちこれを去らんと欲す。
ただこれ形気をもって事を用うるのみ。もし性天をもってこれを視れば、何者か、おのずからその天機を鳴らすにあらざん。
おのずからその生意を暢ぶるにあらざらん。

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